2018年10月18日家庭集会

教会だより, 教会の動き

この時代の、この状況の中で祈るとは(軽めにあっさりと)

聖書:詩編46、マタイ福音書6:5-13、コロサイの信徒への手紙3:16-17
ほか「祈りの花束」を参考に(ヴェロニカ・ズンデル編 中村妙子訳 新教出版社 1987)

朝の祈りを始めてしばらく経ちました。当初は三日坊主で終わるかも知れないと思ったのですが、今もしっかりと続いています。それは祈らねばならない状況が眼の前にあるから、私の長女が受験を控えていること、教会の教勢が低迷していること、厳しい状況を抱えて歩む人びとがいる、ということがあるのでしょう。

私はスマートに祈れないたちで、祈る前に、必ずトイレに行き、用を済ませて、またティッシュペーパーを持って、祈り始めるのですが、いつの間にか、涙と鼻水でぐしゅぐしゅになってしまう事がしばしばです。鼻をかむたびに、お祈りを何回も中断します。そうして祈ると、25分近くかかるのです。

詩編は、祈りの花束だと言われます。詩編は、全部で150本の祈りの花々で構成されます。実際に読んで祈ってみると分かるのですが、いわゆる「しおらしい」「可憐な」祈りは一つもありません。情熱に満ちた祈りばかりで、なかには「敵を滅ぼし尽くしてください」との祈りも多々あります。私はこのような祈りを前にすると、躊躇して、思わず祈ることができなくなります。でも、よくよく考えてみると、詩編の作者ダビデや他の詩人たちのように、燃えるような情熱は無くても、祈る時に力を込めて祈るということはないでしょうか。私は、ひいきの引き倒しのような、親ばか丸出しの祈りを自分自身がよく祈っているなと自覚しています。

私が言えるのは、祈りを重ねているから、信心深くなるのではなく、一人ひとりの名前を挙げているから、心の中にある思いを挙げているからこそ、どんな状況でも揺らぐことが少なくなっているのではないかと思います。まだまだ神さまに委ねることは少ないです。つい自分が、という思いに駆られます。本当に大丈夫なのだろうか、という思いにもなります。でもその自分が祈ることが、神にゆるされている事実に私が今日を活かされ、力をいただいているのです。